純粋に行為自体に価値が発生する。
生きること全般がパフォーミングアートに思えてきた。公共の場で見知らぬ他人同士のケンカが勃発、分かりやすく人目を引きやすい人間の行為ということであれば、ケンカが偶然の芸術の最たる発露かもしれない。後は、中高生の頃に施されるような性教育の、性欲を昇華させる方法や、過剰な性欲をスポーツに打ち込むことで解消させるとか、も関連性が高い話題かもしれない。
人とのコミュニケーションや対象との係わり合いが、つまりは自己表現ということだろう。芸術、自己表現、コミュニケーション、趣味に没頭、私自身が今何を話題の中心に据えているのかあいまいになってきたが、偶然の芸術やパフォーミングアートについて集中して考えようとしているのは確かだ。
正直、生きていて全く楽しくない。深夜の比較的周辺住民が静かな時間帯に観るアニメや海外ドラマは比較的、趣味に熱中している状態と言えなくもない。しかし、相当鑑賞前に精神を統一し雑念を払い、顔を洗い目をきれいにしてかつ眼鏡を洗って視界を整え、と前準備が無いと楽しめない。
つまりは、ザ・スミス全盛期に言われていた、神経質で内向的な若者の為の音楽、のような、そのような人生がどこまでも付きまとってくる。世の中にはいろいろな人が居る。なのだけれど、この集団内の人たちは、何か洗練されていて所属していて心地よい。または全く所属したくない集団でも、何かその集団内の基準で他のメンバーより努力を惜しまないなどの集団内での評価を得ることで、自分の心地よい、自分ルールを多少発揮できるような地位を少しずつ獲得していく。
心地よくない集団に属しても、結局は離脱せざるをえないことや、排出されてしまうこともあるだろう。努力しても地位が上がらず、ただの食い物にされたり、自分の方に不必要な人間関係への依存心が芽生えたり、複雑な精神力学が発生すると思う。私のブログも不必要な共犯関係を維持する装置だったりするのかもしれないし、私自身とブログの関係がすでにまさしくそういうものである前提が存在するから、ブログを開設したのかもしれない。
あまり上記と関係ない結論を最後にとってつけるのだが、人生が無意味なものだとやっと感覚的に理解できて来た。人生は無意味だし、人生は無関係だ。全く共通言語を持たない同士と直感する相手、その直感が外れる場合もあるだろうが、それはどうでもよくて、共通言語くらい探せば私の中で眠っているだろうが、探すのが面倒だし、アニメオタクよりアニメを観ている方かもしれないと自称しているが、アニメのタイトルをいつでもすぐに会話に上らせるようにセットしておくのも、私にそのような才能が無いのが理解できてきた。とにかく、あらゆる他人と共通点が無い、その素質はあるという状態。それが人生なのかもしれない。内面をひたすら充実させることと、それを外に出すのはまた別の技術がいる。
内面を外に出すと、技術の未熟さが露呈して今までの人生の敗北だから、隠しておかなければならないものとも違う。自己充実していれば、趣味で他人と繋がる必要性を感じない。そのような人生の段階に突入しつつある、ということだろう。誰もが、何らかの形で子供の段階から、実はそうなのだろう。と思ったが実際は、技術の未熟さが露呈してしまい敗北感で全身が覆われ、精神が暗黒面に落ちようとも、どうでもいい。人生は全くの無関係だ。何をしようと、何とも誰とも関われない。ただ寄り添うことができるだけだ。
とか書くと、それで終わると温かみがある文章の印象が永久保存されるのかもしれないが、人生は物だ。温かみなんかなく、無機質に無関係だ。例えば、人に優しくするとそのこと自体に価値があるから、人は優しさを発揮し、その逆も然り。純粋に行為自体に価値が発生する。人間は良くも悪くも価値から逃れられない。そのことが、何か絶望的なことのように、最近は思えてきた。