才能とは何か、好きなことを職業にするとは何か。
何から、何を書いたらよいのか、戸惑う話題で書き始める前から困っているが、何とか書き始めよう。私はブリッジというカジヒデキが元いた解散したバンドが好きで堪らなかった話は過去に書いている。シトラスもElectric Glass Balloonも同じくらい好きで堪らなかった。音楽の面から書いてもいいかもしれないし、Webで公開されているフリーソフトの側面から語ってもいい性質の話をこれから書こうとしている。その前に、才能とは何だろうか? 成功とはなんだろうか? そういった話も絡んでくるので、相当に話しづらい話ではある。才能があるから、それが社会的成功に繋がるとは限らないし、その前に、誰が誰のものさしで、その特定個人の才能の他を抜きん出ての高さの有り様を計測計量するのかも問題となってくる。となれば、すでに社会的成功を収めている人物のバックアップと宣伝により開花するのが才能か、という話の流れにもなってこようものだ。あとは、職業作家のような人たちは、才能が有るのか無いのか、判別しにくいような才能を持っている。技術力の高さと言い換えてもよい。前者は、表現力の高さや自由度のことを言っているつもりだ。表現力や技術力が一極集中する中心にいる人たちがいる。これも純粋に才能が有るのか無いのか、判別や判断が難しい。もはや、表現力の高さ=技術力の高さ=資金力、の図式になってしまい、私が何の話をしようとしているのか、ここに辿り着いてしまうともはや何が何だか訳が分からなくなる。
美しさや素敵さやはかなさを体現しているのも才能だ。そして、それを所有する別の人物も、その仲間だという意味で、美しさなどを代名詞として手に入れることが出来る。これも、才能の内にある。そして、目を離せないという意味で、その真逆の感情を人に与えるものすらも才能である。
才能とはものさしを持つ側のもので、才能を持つ特定個人が才能があるという話ではないのかもしれない。そして、才能があるかないかの議論に共依存という問題も含まれ出す。あるアーティストを支える層の、メディア側や消費者としての共依存的買い支えの市場の大きさは才能なのだろうか? この辺は分かりにくい書き方をしたが、まあそう言うことだ。共依存の市場の大きさや長期間持続した一定の評価や権力は、アーティストではなく、現実の社会生活している一般人に置き換えても同じことだ。それも才能かもしれないが、周囲にも当人たちにも不幸になって行く。その不幸の度合いも、高低や範囲を計測計量出来る。
ひきこもりやニートでいると、「夢の職業を追いかけるのは止めにして、現実的な職業に就けよ」とか、「好きなことを職業にするのは不幸なことだ」と意味不明の主旨の議論を一方的に持ち掛けられる。実はこれが私の本題でこれを書き始めた。しかし、この一方的な罵倒の意味する所が全く見当が付かない。そういった主張は、全くのナンセンスでたわ言で、頭が悪い。寝惚けて変な主張を吹っかけて来るんじゃないと、怒りが湧いて来る。確かに、職業と人生の目的が同等になってしまった人たちがいるとする。そして家庭を持っていたとする。その人物が家庭人だと仮定する。しかし、仕事の優先度が家庭より高く、時間が大幅に仕事に持っていかれる。妻と家庭の話をする時間さえ限られて、家庭の優先順位が最上位の妻の不満を時間を掛けて処理をする時間さえ取れない。世の中には時間を掛けて感情を処理するしかない事柄がある。
何を言おうとしたのか、書いていて曖昧になってきたが、そういった好きなことを職業にして、家庭も維持しようとすると、私は家政婦かつベビーシッターとしてあなたに雇われている存在なの、と一方からの不満が発生する事態になりかねない、という意味合いから自分の人生が不幸になってしまうかもしれない。結婚することを念頭に置かれた議論をこいつは、それを明かさずも吹っかけて来ているのか? 馬鹿も休み休み言えよ。職業についてニートやひきこもりが言われやすい、一方的な議論とは結婚をして家庭を持つことを前提にしているということがこれで証明されたと思う。
あとは、趣味と仕事という問題もあるかもしれない。私の知る限りでは、趣味で何か創作している人たちの馬鹿さ加減と言ったら無い。笑けてくるような、低所得者で社会的地位の低い者が作るに似合った完成度の物しか見たことがない。対して、大企業を何らかの理由で憎んでいて、その企業が提供するようなソフトを無料で提供しようとしている人たちがいるのかもしれない。その辺はよく分からない。私にPCスキルもないし、就業経験もないし、それを評価するものさしが私に備わっていない。まあでも、趣味で物を作る人にも、変にその仕事を自慢するが完成度が低いものを作るし何か変な少数やメディアや地域の権力者から評価を得て得意気になっている人たちも、インターネット上以外でも地域社会に確実に一定数存在する。それに対して、企業以上の技術力を保持し、なおかつ、趣味で作った物を対価に換算するのを嫌がる、ある種金銭に対して潔癖症の人たちもいる。
言いたいことは一通り書けたと思うので、ここで一番最初に書いたことに戻ると、趣味はお金に成らないと、私は考えている。音楽を長年聴いたことを基に言っている。リリースされた楽曲の内容について言っているのではない。癒し系音楽のような、何ら個性の無い音楽で社会的成功を収めているアーティストもいるし、学業的経歴や受賞経歴を笠に、音楽を一般市場に売り込むのは、基本的な商売手法である。学業的経歴が、楽曲をリリースする上で、音楽メディア出版会社内部で評価され発展していく展開もあろう。この辺の事情は私には分からない。とにかく、趣味性の高いものは売りにくい、一般市場にアピールしにくい性質がある、ということを言っている。売りやすいものが作られ、売り文句が思い付かないような性質のアーティストは時間が経ち、人気の効果が薄れていくと淘汰されていくように、消費者として接していて感じる。派手で力がある者が好まれ、弱弱しいファンにも業界にも長年居ても何のコネも作れないような才能は消えて行く。
それに加え、一定の人気を得られたとして、その印象を持たれたまま、その先も成功を得たその全く同じ手法で続けて期待に答え、安定した収入を得ることをこの先も続けられるか、というプレッシャーもあるだろう。才能とは純粋に金銭に纏わる人生の問題かと結局は思う。他人より完成度の高い技術力を保持していることと、それを続ける意欲があること、とのその2つは相容れない内的力関係があるように思う。