生きるのが辛い
一日でこなせる行動力の総量は限定的なもので、私は無駄に散歩などを含め、外出することで無駄にしたくない。だが、人生の概念自体が無駄だらけなのも確か。それに、他人と関わることで、脳内快楽物質が引き出しやすい状態になり、自分の能力以上の力が発揮できたりすることもあるし、全くの偶然による人生の好機が掴みやすい状況が生まれやすい。
練りに練った孤独や、社会の最底辺と言えるのか、何ともしがたい嵌め込みに組み込まれている社会的地位、それらから得られるものはない。私は、自分の精神世界に現実社会と同質の世界観を創り込もうとして、今まで生きていたのだろう。だが、今一歩のところで挫折させられた絶望感に苛まれている。今一歩何かが足りない。
私は大量に何かをすることが心地よいと感じるし、それにより精神が安定する。何かの膠着状況を力を加えて加速させるのも好きだ。例えば、「生きるのが辛い」と思うばかりの毎日や人生そのものだとする。そこで、これでもかと「生きるのが辛い」とブログに書き続ける。大抵の人は、どこかで恥ずかしい自分に気づき、ブログを閉鎖するに至る。
それは、恥ずかしいと思った時点で、「生きるのが辛い」熱量が冷え切ってしまい、言葉も出ない「生きるのが辛い」感じへ移行するのだ。「生きるのが辛い」との思いに自分の人生が支配されていると他人に悟られることで、他人に指図されるのを防衛する精神の働きのせいであろう。誰も他人に指図されたくないものだ。
自分で考えたことしか信じないタイプの人物は特に。そして、他人にあれこれクソの役にも立たないアドバイスをしたがるタイプは、他人に依存することに対する信仰を持った人物像なのが、余計に両タイプの軋轢を生む。その両タイプのバランスを保っているタイプの第三の人物像は、私には素晴らしく思える。人生生きていて楽しいのだろうな、と憧れも嫉妬も抱く。
私みたいな人間は、生きていて詰まらないし、自分への負担が年齢と共に増す一方だ。そして、年齢的に限界を感じている。「生きるのが辛い」熱量ばかりでこのブログを5年も書き続けた訳ではないのだろう。私は全てを諦めて、自分だけを信じようと決めてブログを5年書いてきた。もう自分さえも信じる対象に値しないことに気づき始めた。自分から一歩身を引いた地点から、これからはブログをまた書き始めることができるのだろうか?