「プロの嘘つき」って比喩は面白いの? 笑った方がいいの?
前回のエントリで書いた「プロの嘘つき」は、もっと人間として基本的なことなのかもしれない。嘘をついてはいけない、と強制的に育てられたし、その呪縛から「嘘」に対して強い拒絶感が性格的に染み付いた。そして、嘘をついてはいけない、という思い込みは想像力を否定する結果に繋がったと思う。まあ、思い込みというより、子供ながらの道徳や倫理の遵守という方向性で、逆にそれが人間関係の軋轢を促進する結果ともなる。つまり、強迫観念的な独自の強い拘りのような、成長期の人格形成を無意識理に行ってきた。
とにかく、私は嘘がつけない性格だ。それの副産物として、秘密主義でもある。この副産物のおかげで、内的統制が取れ、人格破綻が起きることを回避できる。どちらにしろ、これでは人間関係が上手な人物とはいえない。つねに社会から遅れを取って生きて来たように思う。「嘘をついてはいけない」という刷り込み教育によって。
「プロの嘘つき」のようなラッキーな幼少時代を送ることのできた稀な人材は、想像力豊かな子供に育つように、とか、想像力を伸ばすことを良しとする家庭で育った人物だろうな、と色眼鏡で見てしまう。
嘘をついてはいけない、そんな思い込みは物語を作れなくする。私は年齢的な意味で中二病的に思春期に小説家に成りたかった。しかし、物語は書けなかった。物語は書けないが、他人の書いた文章をたくさん読むことで、文章を書くのは好きだった。それ以前は、小学生のような文章しか書けなかった。まあ、いろいろな小学生がいるし、いろいろな教育を受けた小学生がいようが、とにかく、私はつまらない文章しか書けない小学生だった。
嘘をついてはいけない、という意味合いに、自分に都合の良い物語を作って人を騙してはいけない方向性と、物語を作って想像の世界に入り込んで、荒唐無稽な妄言をして大人を混乱させてはいけません、という方向性の二面があると思う。嘘をついてはいけないことに関するその二面性を封じてしまっては、全く遊びであっても物語が作れなくなる。ずっと、人生において物語が作れないことが悩みであり絶望であったが、根源はこういうことだと思う。
とにかく、書き忘れていることがあるかもしれないが、物語を作ると言うことに関しては、そう上記のように思う。だが、それがどうした? と思う。なぜそこで、自分を勿体つけて「プロの嘘つき」だと自称しなければ行けない話しの流れになるのかが、全く理解できない。誰もが厳密には嘘をつくし、言葉自体が嘘にまみれている。事実だけを話しつつ、別のイメージで他人から見られるように仕向ける情報操作的手法もある。それを「プロの嘘つき」と自称することで自ら行ってどうする? としか思えない。「プロの嘘つき」って比喩は一体何なの? それ食べれるの? 嘘ついたら死ぬの? 小説家は詐欺師なの? 合法的な銀行強盗なの? あなた、権威の場に能力が衰えているのに現役で居座っている老害なの?