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企業も個人も、その本質は同じではなかろうか?

無限の資金力と収支決済の期限を無期限とすれば、私のやっていることを、仕事と社会に認識させることは、おそらく可能であるし、支出よりも収入が上回るはずである。何が言いたいのかと言えば、ひきこもりだニートだ穀潰しだと言われ続けて来たが、これは完全に間違った認識である、と証明したいのだ。しかし、冒頭に書いたような環境が、誰もが持てる社会ではないので、結果的には、私は無職無能力者でしかない。

言いたいことは、私がやっていることも、私がしたいとは思っている抱えているアイディアが、資金的にも環境的にも私が持て得るリソースの幅を一回りは超過している望みは、決して間違った方向性ではない。企業はそうして回っているのだ、と言いたい。ただ、やれることが今のままの状態では、しょぼ過ぎるというだけで。

集中できる環境だけでもあれば、もっと技術的かつ慎重に、何かを生産できる。しかし、それさえ、持て得る人は限られている世の中の構造になっている。ブルーワーカーの子供はブルーワーカーにしかなれない。それ以上を望むと、不幸な人生に突入する結果となる。だから、知識を溜め込むような生活スタイルではなく、その時々でストレスを溜めないように、機会を目敏く見つけ、発散するような生活スタイルになるんだし、その皺寄せが私に来る。

私は独自性を保ちたい。それだけが、私の人生の望みだ。その為には、自己との競争に打ち勝たなければならない。特定の他人というより、昨日の自分より、より賢くなりたい。私は資本主義の本質である競争社会にも、ブルショアが近代社会を構築するにあたって引いたレールである消費社会にも、出来れば、加担したくないし、出来れば、その参加に当たっては出来るだけの期間留保したい。

まあ、しかし、結局は未開社会のイニシエーションと全く同じことが行われているのが、現代日本であり、ひきこもりやニートは働け、と言われている根拠はここにあるのだろう。成人男性が行うべき通過儀礼を、嫌がって痛がって拒否し続けている子供、という目で見られた意見が、ひきこもりやニートは働け、とう罵倒の意味するところであろう。

しかし、私は、人類の文明の歴史を追体験している気分で、人生を送っている。ここに重大な齟齬があるのかもしれない。村八分的成長期の人生を送り、30を余裕で超えているのに定職を持っていない、つまり世界経済だか国内経済だかの、とにかく、大人の経済活動に加担することを拒否し続けている、鎖国や世界大戦のような頑固さを捨てきれないし、どこか負け戦の結果は見えているのに勝てる気満々でいる。

とにかく、私が言いたいのは、企業がやっていることも、一個人がやっていることも、本質は同じことだ、ということ。そして、人は一人一人が違っている。そうして世の中は回っている。誰かが落ち込むところでは、誰かは元気になるところ。誰かが引っ込めば、誰かが瞬時に代わりに出てくる。各個々人に違いがある。積極的に売り込む個性ではなく、受動的に人は個性的である。それは弱さと言い換えてもいいし、弱みは裏返せば強みということになる。

もう一つ言いたかったことを纏めると、とにかく、社会の人的リソースに、様々な理由で、その成長を促すような社会に成ってもいいのだはなかろうか? 人にはどのような人であろうと、ポテンシャルがあるし、金銭的に支援されるべきだ。それを誰が評価というか、分類するのかとなれば、それは実現不可能に近くなる。とにかく、人がしたいことが、誰でも、絵画療法のような結末ではなく、社会的な芸術活動が行えるような社会に成って欲しい。

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