現実世界に身を置く場所が一切見出せない!
月額が有料無料のもの含めて10には満たないだろうがいくつかオンラインゲームをPCに導入してみたが、自分の肉体的及び視認性の能力に心地がいいものというものに出会う確立が著しく低い。何らかの資産をこつこつ溜め込むことは決して責められたことではないと私は考える。ネットゲーム上の資産であれど、現実的に自分が稼いだ資産だ。現実のサーバー上に、自分が働きかけ、こつこつと数値データを上積む作業だが、これはオフラインゲームと違い、私以外の他人の目にも価値がある作業である。すなわち、他人の目にも認識される数値に価値がある。私のブログに価値があるとすれば、過去ログに価値があるということだ。
その過去ログは読まれないかもしれない。誰も過去ログなんかさらわない。誰もが最新記事しか読まないのがブログというものである。それも気が向いたときだけ、その気が向いた瞬間の最新記事しか読まれないのがブログというものだ。だが、それも過去ログの重みがあってこそのことだ。過去ログは人生の過去のように重い。他の誰もの目には触れないものかもしれないが、この世のどこかには私の過去の汚点や汚名、その呼び方はおいといて、暗黒面や歴史とでもいうべき評判や評価より重い記憶を他人と共有している。記憶とは他人を傷つけることであり、その重みを背負うことである。
自分を傷つけるか、他人を傷つけるか、ハードワークという自他共に傷つける選択肢もある。
私たちは重いのだ。他人の人気を勝ち得るタイプの人物ではないので、重いのかもしれない。私たちには厚みがある。ハンマーのような調理器具でそのシャイロック的肉の厚みを薄く広く伸ばすべきなのかもしれない。私たちは常に選択肢に晒されている。やるのかやらないのか、それとも考え込み立ち止まるのか、無力感や無気力から茫然自失するのか。それとも一切のルールを無視して、自己に快楽的な運動に純粋に身を委ねるのか。
現実世界に馴染めない。ネットゲームを試してみても、どこもかしこも現実しかない。何処に非現実があるのか。あるとすれば関係性の中にしかありえない。私のブログは非現実です。私の無職存在は現実世界ではあってはならないものだからです。私の身は現実世界の誰の目にも認識されない場所にあります。存在感はあるのかもしれない。しかし、視認することが不可能だ。私さえ、私の存在や身体を確認することが不可能なのだから。しかしながら、ブログを書いている間は生きているし、肉体に魂が入っている。ネットゲームをプレイするという自キャラのデータをサーバーに送り続ける行為中は、私は生きている。私は非現実的な存在だと自己レッテル貼りしているが、非現実だということは虚構とは決定的に違っている。私が作業しなければ、私の存在はないも同然だ。オフラインでアニメや字幕映画や海外ドラマをしこしこ観ている時間は死人の時間帯なのだと最近思えてならない。