日本では、社会参加は椅子取りゲームでしかない。
時間を売る。それが商業の基本モデルであろう。時間を効率よく生産性に換えて売る。これがビジネスの第二段階であろう。私の時間をより効率よく生産性に変換する、ことが私にも可能だったらニートやひきこもりに成らなくて済んだのかもしれない。しかし、社会には一定の割合で生産性の負の面を負う社会要員が存在させられてしまうのも真実である。ニートやひきこもりは社会の一定の要員が割り振られてしまうのも必要悪として仕方が無いことだ。
社会参加することが社会的な能力だ。私も何か社会参加しなければ、存在意義がではなく、生命が危険に晒されているという以外の意味を持たない生命体であることに他ならない。
私には社会参加が困難だし、社会的に努力する能力が低い。自意識を持って、言葉でああだこうだ言う以外の言語能力に乏しいし、お金を有効に遣う能力も普通の人と比べて著しく低い。
とにかく、ビジネスと言えば、裏方と接客する側に分かれる。裏方も、製造要員、技術要員、経営要員、人員を割り振る要員、事務要員、などそれぞれに好き嫌いはここでは問題にはしないとして、社会的に得て不得手があるだろう。そして、私には、家業として単純作業員、単純製造員で、かつ単純製造要員から他人を教育する立場に昇進できない、そんな身分階級及び能力を受け継いでいる。受け継いでいる、というと誤解を生むかもしれないが、そんな生易しい言説でなく、単純作業要員以外では有り得ないエリート教育を性根から叩き込まれて刷り込まれている。
とにかく、私の時間も知識も売り物にはならないタイプの屑だ。脳にゴミが溜まっている。私には何の知識も技術も無い。私の時間をお金に換算不可能だし、何の社会参加可能な能力をも持ち合わせていない。私がどんな社会的価値の在る集団に下働きとして受け入れられるのか?現在の能力では不可能だと認識する以外に無い。
日本とアメリカは社会構造が全く違う。日本とイギリスも全く社会の成り立ちが違う。イギリスやフランスなどの先進国は、国内の人間に優しい社会だ。かつ、優しさだけでは国を強くすることは出来ないから、国外のより遠い地域へ皺寄せが来る。モラルの高さが求められる国民性を維持するには、国外へ非人道的な生産性を強いることが必要になって来る。日本はアメリカ型の社会参加の国でも、ヨーロッパ型のモラルの高さを求められる国でも、どちらでもない。
アメリカは努力する人に優しく、努力しない者に辛く厳しい国だと、国内外のメディアに要約される機会が多いとの私は印象を受けるが、これは社会参加のことを言っている。そして、アメリカは日本のように社会参加のハードルが高くない国だ。本人が努力家ならば、どんなレベルのキャリアアップ方法も選り取り見取りである。当人の努力を社会への貢献度で計るのだ。知識があるというのも人類の知識の共有という社会貢献をしていることだ。私の持っている知識でも、見方を換えれば充分に価値の在る物であるはずであるし、社会の役割を担う素質は備わっているはずである。だが、何故に私の持っている知識ではこの日本国ではゴミ扱いさせるのか?それは単純に、椅子が足りているからである。単純に椅子の空きが無いからである。私の座る場所が、この日本には存在していないからである。日本では、社会参加は椅子取りゲームでしかない。私に取り合えず必要なのは、組織の末席を勝ち取ることだけなのに、高いコストを払わなければ成し得ない。私にはそんな高いコストを払う能力が無い。学校教育をドロップアウトしてしまえば即座に、私のような末路であるのだ。学校のみが、ここ日本では社会参加であり、キャリアであるのだ。私もどこでもいいから、興味がありかつ今持っている知識が転換可能な学校教育の末席に参加させてくれ、と思っても難しいのは皆さんもお分かりであろう?