マイノリティ的趣味が先か?マイノリティ的資質が先か?
文字を書き綴る精神的余裕が持てない。頭痛を脳に与え続けるような生活をし続けている。ある種のインターネット中毒だし、ひきこもり状態も中毒症状を示しているものであろう。心理的な縛りから外に出られなくなった。そもそも、田舎で足もないのに何処へ行けというのだ。
昔、『公募ガイド』なる月刊誌を毎月購読していたが、美術作品や文芸作品をコンペティションに送った試しが無い。地域の美術館などが主催する展覧会などに、作品を制作して送る技術すら手間取る技術力の無さだ。とにかく、私の持てる社会性をアウトプット出来るチャンスが欲しい。何でもいいのだ。がしかし、今はチャンスを見つける機会も場もない。情報からも社会からも締め出されている。
私がマイノリティ的行動、例えば人とのコミュニケーションを完璧に避けたり他人と共有しづらい趣味を持つことなど、が私がマイノリティである所以だと思っていた。マイノリティではなく、はてなコミュニティで人気のキーワード『非モテ』と言い換えてもいい。だが、趣味を一般的な物に変えて、服装を一般的な若者に受ける物に変えても、結局は本人が参加したいコミュニティに積極的に働きかける能力の問題ではなかろうか?
積極性は後天的な社会的能力かもしれないが、生育環境から受け継ぐ能力でもあるはずだ。それに加え、誰に向かってどのコミュニティに向かって積極性を発揮したいか、その問題が大きいはずである。人は全てのタスクをこなせはしない。能力の限界、時間の限界、資金力の問題、人脈の問題、その4つを常に念頭において人は積極性を発揮しているはずだ。
とにかく、何に変えても何かを成し得る集中力が私は欲しい。貴重な時間を湯水のようにじゃぶじゃぶ限界まで使い切るまで目一杯使い切る無駄遣いではなく、もっと意義のあるものと交換したい。
重要な結論の方を言い忘れていたが、とにかく、私の趣味がマイノリティなのではなく、私の資質がすでにマイノリティだったのだ、と今更ながら気づいたし、そう決定的な結論を出すことが出来た気がする。