民主主義と村社会とについて
民主主義の良い所は誰にでも発言権があり、多数の意見を採用するにしても意見の調整が行われるところにある。日本に住んでいるので、民主主義については想像できても、共和制については感覚的には分かりづらいものがある。
日本型の社会は民主主義というよりも村社会寄りの社会システムだ。村社会の悪いところは少数派には発言権が無く、意見封殺や抑圧される側に回らせられるところだ。まったく意見を言えない役割が、マイノリティに否応無しに宛がわれることになる。しかし、村社会の良いところは、多数決を取ったりしないので敵が見えにくいところだ。村社会では、近くにいる人に愚痴を言えば、回り回って当人の耳に愚痴がオブラートに包まれ洗練され、伝わる利点がなかろうか?その利点も、不用意な発言をすれば、政治的に失脚していくということだろうが。
無意識的抑制が掛かっているにせよ、私の意見はまったくの意味を成さないし、意見を言うことに慣れてもいない。私の意見を媒介してくれる媒体も身近に存在しないので、私には村社会型より、民主主義の徹底こそが望ましい社会である。私はマジョリティには成れない。私は多数の人気を集めるようなキャラクターやパーソンをしていないのを、よく自分で身に染みて理解している。それに、多数派というのは変遷が激しい。時代と共に完全に入れ替わっていくものだ。
とにかく、私には村社会の一部にケンカを売って敵対するしか、生存する、もしくは、居場所を作る方法がそれ以外に無い気が本能的にする。本能で確信している。おおぴらに敵対するしか、居場所を作る方法がないのだろう。閉塞感の元凶と敵対する以外に無いのだ。敵を作る以外に居場所もモチベーションもないのだ。村八分的居場所を無理にでも作る以外に無いのだ。
すなわち、自分の無能力さと他人の無能力さを交換するのだ。交換の流動性の中にしか生物は生きられない。私もそろそろ、密室の隔離状態に耐えられそうにない。発狂しそうだ。