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記憶の暗部について

もっと親切丁寧に自己紹介しているブログにならなければ、と考えているし、実行しなければ、と最近は思い詰めているのだが、それの脳内信号が指先に届き作業に至るまでまだまだ長い道のりであるのかもしれないなと思う。勉強も仕事も趣味も、ことごとく成しえない無能力な人物が私だ。何一つ成功した記憶がない。この記憶というものが厄介なものなのではない。記憶自体はどうでもいい。人間は忘れていることの方が多い。思い出したくない記憶は大いなる闇に葬られている。

ニートやひきこもりは甘えていると一般的に及び世間的にバッシングの対象となっている。バッシングが大っぴらに成されるのなら、擁護派というよりも、バッシング側と反目するグループが浮き彫りのように浮かび上がってくる。これはバッシング当事者イコールニート及びひきこもり擁護派ではない。バッシング派に替わってマジョリティー性を獲得する権力抗争でしかない。しかも、擁護派というのは性質が悪い。暴力の存在を目ざとくもしくは、小賢しく見つけて、正当に暴力性を発揮する場を虎視眈々と待ち望んでいる種類の人物だ。

話が大きく逸れたので戻すと、思い出したくない記憶は心の闇から記憶が取り出されることはない。言わば、個人の歴史においての暗黒面だ。虐げられている側は、ちょっとした嘘をついたり、細部に難癖をつけてその場を言い逃れる。そのように常に評価をされる。

弱者は自己弁護が下手なのもあるし、他者と協力関係が結べないから永遠に弱者なのだ。民主主義国家でなくても、より多くの自分の意見への賛同者を募り、絆を築くべきだ。有事に備えて友人を多く作っておくべきだ。それが日常生活の上で心を砕き、心掛けなければいけない最優先の仕事だ。

ただ孤立無援は孤立無援なりの闘い方もないわけではない。現時点での数だけが民主主義ではあるまい。数字は常に揺らいでいる。その弱点を戦略的に突くしかあるまい。数字をより大きく動揺させる以外にない。

とにかく、孤立無援の者は自己弁護を上手く行使する以外に生存していく術はないのかもしれない。大いなる記憶の闇を覗き込んで、までも。

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