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私たち

たまに勘違いをされることがあるのだが、このブログの書き手である私が「私たち」と発言するとき、数人の「ひきこもりたち」や数人の「ニートたち」や数人の「無職たち」や数人の「低学歴かつ無資格者たち」の意見をまとめて私が代弁者に成り代わろうとしているわけでも、単純に自意識肥大に陥っているわけでもない。

アンネ・フランクさんが親愛なる日記さんともに文字を書き綴っているのとまさしく同じ感覚で「私たち」と、このブログの書き手である私は言っている。

それ以外の考え方においても「私たち」は有効ではないのか?私は「萌え」と似た感覚で「私たち」であると差し出がましくも発言することがある。私は私個人でもありうるが、言葉を使っているという、まさしくその一点で、私は私でもあるが私たちでもある、と確信できる論拠ではなかろうか?

私は言語という愛をばら撒きたいから「私たち」と言っている。何らかの仲間に向かって私は、他の人物と結託しているような感覚を得たいが為に「私たち」といっている。「愛をばら撒きたい」は少し誤謬を含むかもしれない。私の愛をより多くの人に丹念な所作で分け与えたいし、受け取って欲しい。そんな言語行為が、私にとって「ブログ」である。

私の言説に対する賛同者を募る為に「私たち」と言っているわけではない。私とブログ購読者(無料のブログ配信で購読者はないだろうとの意見もあるだろうが、定期的にブログ配信を受け取る行為をこの場合「購読」と言っている)の間に絆を結びたいからつい「私たち」と言ってしまったうっかりさんでもない。

私が言語や意見を繰り出す最低ラインにおいてすでに、私は「私たち」である。私は「誰かに言語を教わって」言語や意見を繰り出しているのだから、すでに「私たち」である。私を罵倒したり非難したりする言語もその「私たち」の中に含まれている。自己批判も他者からの批判も含めた「私たち」である。

しかし、単純に私の意見に賛同してくれる人員を募っている場合にも、あえて私は愚鈍にも「私たち」と書く場合もある。愚鈍上等!愚鈍最高!愚鈍気持ちイイ!ついでにオレのブログ最高じゃね?自画自賛絶賛配信中!

あああああああああああああああああ、何か疲れてきた。そんなことはどうでもいいのだが、ほんとうに真にオレのブログはクソだ。クソが詰まったクソ袋ブログ人間だ。

とにかく、仮に、数人の「ひきこもりたち」や数人の「ニートたち」や数人の「無職たち」や数人の「低学歴かつ無資格者たち」の意見をまとめて私が代弁者に成り代わろうとしていても一向に構わないと思っている。それはどんな場面においてか?

その代わり、親の世話には一切ならず、他人に迷惑(犯罪も含む)もかけず、公共的サービスも受けないことだ。無人島でも行って自給自足の生活でもすればいい。

最近の人生の楽しみと言えば、ドラマ『Lost』を観る以外に全く一つもない。ドラマ『Lost』だけが心の支え。じっとりとした重い頭痛が続く毎日で、ブログすら書く余裕がない。少なくとも毎日は、ブログすら成しえない体調でつくづく嫌気が差す。それにオレのブログなんか全く読まれない、つくづく読まれないクソ中のクソブログだ。ドラマ『Lost』のように無人島で暮らしたいな、ということが言いたい。その場合においてネット上で「小沢一郎さん、私たちを無人島に連れて行ってください!」と発言する場合において、「私たち」は皆さんが通常理解している「私たち」として「私」は真に発言することができる。

他にもいろいろ書き足りていないが、今日はこの辺りでエントリーを終わります。

下記のブログ記事から着想を得て、このエントリーを書き始めるきっかけになりました。

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