本当の貧乏人は覇気も生気も全く無いのが実情だ。
頭痛が酷い。昨日なんかキーボードに向かって吐きそうになった。眩し過ぎるのかもしれない。光に対して過敏になっている。この光はもちろん人工的な光について言っている。特にパソコンのモニタが眩しくて吐き気を覚えてうずくまった。
もう少し快適なインターネット環境を作れればいいのだが。足が伸ばせて、モニタをどの角度から見ても同じ色調の映像が見える。モニタの位置が自由自在で、キーボードの位置も自由自在。足が自由に伸ばせられて、モニタから視線を逸らすことなく、ストレッチが可能。足に電源その他のたくさんのコード類が全く触らない位置に整頓され収まっている。そんな環境が作れないものか?
とにかく頭痛が酷い。自然に触れたい。窓も連日開けていない。空気を連日全く入れ替えていない。太陽の光も浴びていない。外出もしない、勿論のこと太陽の光に当たる機会が全くないに等しいことで頭髪が禿げないか心配で堪らない。
特に文章も乗らない。気分が乗らない。世界が眩暈で覆われている。無理せずこの辺で今日のところは日記を終わらせよう。
プレビューとしてこのアイディアをブログに話題を膨らませて書こうと思っていることを着想していることとして書いておく。酷い文章を書いているなと自分でも思うが、過去の偉大な日本人でたぶん、経済的に日本が豊かなバブル期80年代に、故意に句点読点をあまり用いず、一文を果てしなく長くしている人物が多く居た気がするが、その人たちの影響を私は多大に受けている。とは言え、私の文章を読み解くのは時間が掛かるのではないか?と思う。自分でも読み返すと意味を理解するのに時間が掛かる。かと言って、読みやすく、理解がしやすい文章を書くとすれば、文章量が元の文章の何倍にも増えるだろう。適度に文章量を減らして書かなければならないのはならないはずだ。
あああ、話を戻すとする。だいたい皆勘違いをしている。貧乏人は泥臭くがむしゃらで体力だけが取り柄の、洗練されていないが内面に豊かな土台がある人物を、一般人は貧乏人だと思い込んでいる。自己主張を全くしない、食べ物も碌な物を食べず食生活が壊れている、もしくは、録に食べ物を口にしないで禁忌している。覇気がない。生気がない。見ようによったら、このような人物はソフィスティケイテッドされている上品な人物に見えうる可能性がある。こういう人物こそが真の貧乏人だ。皆さん、貧乏人を勘違いしておられると私は実感している。私は高学歴ニートでも有資格ニートでもない。私はありとあらゆるチャンスを奪われて育った。それが社会的に通用する構築的なチャンスの奪われ方なら誰も不満はないはずだ。私たちのような貧乏人は社会的な努力が出来ない。社会的に無意味な努力しか成し得ない。努力すれば努力するほどに、社会から存在感が消えていくのだ。社会に何の居場所もない。社会に通用する時間の使い方及び努力が出来ない。唯一成し得る事と言ったら、存在感を消すことに全霊を注ぐことのみだ。
私が主張したいのは、映画『カルネ』の娘とドラマ『Prison Break』のサラ・タンクレディは表面的に共通点が多いし、同じようにソフィスティケイテッドされている上品な人物に錯覚し得るかもしれない。一見して同じように裕福層出身に見えるかもしれない。
本当の貧乏人は覇気も生気もない人物のことを言うのだ。
仕事を選り好みもせず、体力だけが取り柄。お金がないなら形振り構っていられないはずだ。ひきこもりやニートに対して、こんなタイプの非難が多い。何度も繰り返すが、本当の貧乏人は覇気も生気もない。この状態が何故か裕福な人物に勘違いされやすいのはなぜなのか?誰か教えて下さい。