焼き魚記念日
疲れた。頭痛のサイクルがまた再び来ている。陽を浴びなければだめだ。というのもあるし、一日中液晶モニタを眺めているせいでもある。外を歩くと太陽光線に包まれるような、濃密な空気感がある。立体的に太陽光を浴びているのだ。対して、家の中だと、平面的な光の照射しか受けない。家の中には太陽の恵みがないのだ。窓枠が邪魔なのである。光を遮る太いサッシの柱の存在が大きい。
とにかく、疲れた。説明が面倒で愚痴をこぼしたいくらいに疲れている。まだまだ寒い。冷える。それに反して、一日に2、3度、体温が急上昇する。肌が痒くて仕方がなくなる。これが夏に来たらと思うと怖ろしい。夏は嫌だ。地獄だ。
とにかく、流していくしかない。新着エントリーを生産していくしかない。反射神経でどんどん書き上げるしかないのだ。まだまだ、ほんとうに冷える。季節が替わるのを待つしかない。待ってどうなるというものでもないが。とにかく耐えて、ログを流すしかない。
焼き魚を焼いて食べた。たまたま、一匹分の凍った鯵の開きがあった。解答して焼いた。これは正確には何て名前なのだろうか知らない。たぶん「鯵の開き」ではあろう。ただ、魚の種類は分からないし、知らない。目視して、状態が開いてあるから、脳内の単語データベースから「鯵の開き」の一件のみが引っ掛かったから、鯵を焼いて食べた、と思っている。思っているが、無知から来る思い込みの可能性もある。
それに開いてあるだけではないだろう。目視したところ、生っぽいが完全に生ではなく、程よく乾燥している質感がある。この土は湿っているが粘土、のような粘度も湿度も同時に高い質感の加工品。一夜干し、とかそんな加工食品で伝統的な技法なのであろう。保存食とまではいかない。そのように加工する理由は、味を良くする為にであろう。冷蔵庫がなかった時代に知恵を受け継がれてきた、短期的な保存技術が「一夜干し」なのであろう。
とにかく、凍っていたから、何とか解凍して、焼いて食べた。今日、人生長く生きてきて、初めて、魚の食べ方を知った。そのように強く確信した。
焼き魚は、全てを食べることが出来る。残す所がないことを、今日初めて知った。始めに、全ての身を食べる。いつもはそう食べてきた。家族もそうしていた。馬鹿家族だ。さらに馬鹿なのは、身を食べた後の部分は、お吸い物のようにそれ用のお椀に入れ、醤油を垂らして飲むといいと、得意気に教わった。確かに、そのお吸い物は香ばしくていいかもしれない。
だが、お吸い物にするまでもなく、全て食べることが出来た。ボリボリとしっかり、骨の先に気をつけながら、丁寧に噛むと、全て平らげることができた。しかし、全てとは言っても、中骨だけは止めておいた。人間の「歯」を食べているような硬さと大きさだった。脊椎動物なので、人間の脊髄と同じくに魚も、動きを柔軟にするために、竹の節のように節々で一つ一つ分かれるようになっている。その一個一個の魚の背骨が、人間の「歯」のような大きさと、硬さだった。とにかく、不気味な大きさだった。人間の歯のようだった。それに硬い。だから、吐き出して捨てた。
とにかく、魚が食べたかった。私は魚が好きだ。煮干とかが無性に食べたくて仕方がなかった。私は肉や牛乳は好きになれない。やっぱり魚だ。全てを食べることが出来る焼き魚が、私にとって素晴らしい食べ物だ。魚が好きだ。日本人だからなのだろう。胃腸的にもその食生活が私に合っているのだろう。
背骨以外は全て食すことが出来た、人生のスタート・ラインだ。とにかく、初めて魚の食べ方を知った。自分で何でも到達するしかない。家族からは何もこのように学ぶところがないのだ。
「背骨以外は」は厳密には違うな。あとは、人間のアバラ骨に相当する骨の内、太く鋭い骨を5本程度食べ残した。その「背骨」はティッシュにはきだしたのだが、本当に人間の歯のような形と大きさだった。しかし、また留保しなければならない。本当に人間の歯だったら、根元も長い奇妙な見たこともない長い、何だか分からない正体不明の細長いしっぽが付いてくるのだろう。それは私は体験したことがない。乳歯の生え変わりのような感じだった。吐き出したティッシュの中身を見るとそうだった。
いや、やっぱりよく覚えていないな。人間の歯のようだった、というのは、普段鏡で自分の歯を眺める時に見える部分のみの印象から、似ていると想像しているイメージに過ぎなく、現実とその自分の歯に対する表面的イメージとの間にギャップがあるのだろう。
とにかく、焼き魚で出る生ゴミは少ないどころか、限りなくゼロに近いことを、今日初めて本能からの行動から経験した、記念すべき一日だった。