ニートの私が考える職業観
ここ100年で、特に日本においては、職業を取り巻く環境が大きく変わったはずだ。それに考えを巡らす上で、資本主義と社会主義は外せない概念である。
職人という職業が潰える瞬間というのもあったはずだ。今では、職人ではなく、専門的な知識に長けた、専門職である。かつては、今では工場で大量生産される工業製品を、人の手で作っていた、という程度のことでしかない。大量生産の時代では、「産業の切り替わり」が明確に起こったはずだ。
ニートは、近代社会で必要とされていない、無能力者だ。余剰人員だ。余っていてしかたがない。大量生産が浸透しつくした現在では、人員が余るのは仕方のないことだ。自国で限界がある生産は、他国で大量生産させる時代だ。
専門的な知識は、中産階級より上の人たちで、共有され培われている。豊かな共有財産であり、そこに私のような無能な余った人材は、アクセスすることができない。アクセスというより、コネクトと言う方が正確である。私のような余剰人材では、関係性を作っていくことが不可能なはずだ。
何もかもが、国や社会に絡め取られる時代は、かつてなかったはずだ。今の私からみれば、過去の時代の方が、ビジネスチャンスは豊富にあった。現在では、法律で対策されていたり、過去の時代より、より収入面での監視がきつい。本業のかたわらで、細々と副業をする、という時代ではもうありえないはずだ。企業は、かつての社会より、より収入源のバリエーションを増やそうと貪欲になっているはずだ。
日本は、寒くなったり暑くなったりする。これがなければ、日本は社会発展しなかったはずだ。寒ければ、いろいろと冬篭りの準備を、事前に計画したり、ノウハウを培ったり、情報を共有して、自分で到達できる以上の知識を、受け取ることができたはずだ。高積雪地方では、住宅建築技術(強度の点、断熱と汚れた空気を入れ替える技術の折衷、夏でも冬でも快適な住まいの概念)が他の地域の水準より高かったかもしれない。
原始社会と、現在の社会はまったく同質のものである。ただ、現在では、物々交換のかわりに、貨幣が絡み、その貨幣は国が発行していおり、国の管理下にある。貨幣の流れが国に監視されるのは、自然な成り行きである。
私のような日本人は、ただの余剰人材にすぎない。かつての時代の労働者階級が、私たちニートだ。それを受け入れなければならない。
その「かつての時代の労働者階級」は優遇されてはいなかったはずだ。賃金未払いの目に遭わされることはしょちゅうだったに違いない。「お前は無能力な労働者だ!」、「今、怠けてただろ?」、「お前の他人より働きが悪い」、など、現場で様々な失敗をあげつらわれ、賃金を大幅にカットされることも、日常茶飯事で多々あったはずだ。