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愛と憎しみのブログ

私のような人間が何を書いても無意味な気がして脱力していて、何も言葉が出てこない。もっとグルーヴを練らなければ、言葉が出てこない。もう、何の源泉も枯渇してしまっている。日々何も学んでいないから、それに関連したフィードバック・エントリーとも無縁だ。

私だって、誰か特定の人物を吊るし上げたり、呪いの言葉を贈ることも可能だし、そう出来るものならそうしたい。どちらにしろ、時間はたっぷりあるし、失う物は何も持ってはいない。自暴自棄になりやすい傾向を持っているし、自己評価が低い性質がある。だからといって、他人の物を奪ったりする必要性も欲望もない。ただ欲しいのは、もう少し何らかの安定した評価が欲しいってだけだ。

始めから独自ドメインを取得し、インターネット上のアドレスを育てれば良かった気がしてならない。このブログの始まりからして、知恵が足りていない。私ほど馬鹿な人間はいないんじゃないか?

というのは、独自ドメインを取得せず、フリーのブログ・スペースをレンタルして運営している人は馬鹿だ!と暗に主張している言説ではない。この場合、他人のことはどうも言っていない。例えば、あなたから見た印象で一見、私はあなたより頭が良く見えるかもしれない。しかし、それは私が必要に迫られているから、私のどこかのパートが日々少しずつ進歩しているように見えるかもしれない。しかし、私は日々特に何も新しく学んでいない。ただ遊んでいるだけだ。言わば、インターネット上の特定の場所で、遊んでいることが何らかの経験になっていて、何らかの経験を積み重ねているかもしれない。

とにかく、切り捨てるように結論を出すが、私の技術も文章技術も、特に変化した部分はありはしない。始めから知っている程度のことを、現在は少し、大げさに書くことが出来ているだけにすぎない。人間は成長しない。人間の本質は変わらない。私は、殻を破って明るくなる、とか言っている馬鹿が嫌いだ。人間は、ポジションによって様々な側面を開花させたり、枯れていったりする、ただそれだけのことだ。TPOで説明がつく。場所によって、求められる能力を使い分けているだけだ。

私は知識は道具だと思う。上手く使ってこその道具だ。知っているのに使わないのは、納屋の隅でクモの巣まみれの、長年放置された庭の剪定道具にすぎないし、そんな庭は荒れ放題だ。使えるものは、使わなければならない。私に使える物は、自分自身しかない。あなたには、まだ頼れる物が別に存在している。

私が何らかの成長がみられると他者に感想を持たれた時は、自殺したいくらいの気持ちになるだろう。そんなことは、生まれた時から百も承知だ。何の成長もしないのだ。ただ、社会的な存在になるか、社会から隠遁したポジションに現在いるかの、細塵な違いにすぎない。しかし、その「細塵な違い」で大幅に生きやすくなるのだろう。

かつて、「叱咤激励されるとやる気が出る」というニュアンスのことを書いたかもしれない。それは、他人に怒られた経験がないせいで、叱られることに飢えているから、という理由からではない。不特定多数に恨みを密かに抱いていても意味が無いし、精神を病んでしまう結果になる。例えば、「大人は(やり口が)汚い」とか「政治は腐っている」とか、そんな無自覚な思い込みが、それに当たる。個人個人を分けて考えたり、観察してみると複雑な仕組みで動いていることが、一目瞭然だ。そんな個人の観念を回復する試論としての「叱咤激励されてみたい」にまつわるファンタジーだ。

私はもう、やろうと思えば私とは違っているタイプのブログ運営者に対してパワーハラスメントも可能だし、呪うことも可能だ。自己防衛時に限定して、そうすることが可能だし、可能ならば早く行ってみたくてワクワクしている。私はパワーハラスメントすることも出来るし、公然と呪うことだって出来る。今まで我慢したが、ブログをしてから現在まで、随分と馬鹿にされた扱いを受けてきた。そんな場所がブログである。

愛は適度に期限が切れやすいものなら、憎しみを信じた方が確信を持てる気がする。もしくは、愛を語るなら、愛する者や愛する者たち、人物でなく物でも空間でも土地でも何でもいいが、愛するもののためには、敵対する概念を憎まなければならない。そうしないと、愛が生かされないで死んでいく一方だ。

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