商業主義の初期段階を見るような気持ち。
他人のブログを読んでいると、私にもある他人に批判を浴びせかけたい気持ちとタイミングが合うブログを度々見かける。私は読み手として、ブログ界隈を二種類の視点で読んでいる。何が書いてあっても無条件に信頼を寄せることの出来るブログであるか、それとは真逆に、細部が気になって仕方がない記述が満載のブログであるか、だ。どちらも、細部の記述に納得がいかないことはいかない、という点で共通点はある。
単純に、前者からは「楽しさ」が感じられ、後者には「苦痛」しか感じない、ということであるかもしれない。前者の言葉には肉体を感じ取れるが、後者は嫌々ながらの仕事を憎んでいるが効率よくこなし対価を得たいという忌まわしいペーパーワークでしかない、という印象がある。どちらが正しいでもない。言説の質が高ければ、後者のスタイルで構わないし、むしろ生産的なブログ活動という点からそうすべきだ。楽しんでブログ書いている者は、言説の質がおのずと高い。熱意を無制限に注いでいるからである。
活字になった文章は、あまりにも商業主義的過ぎる。法的に自分の損にならない言説であったり、頑固な人間の頑固さを煽り思考回路の原始性を呼び覚ます言説であったり、名を売るために刑の軽い法律をわざと犯してみたり挑発してみせたりする言説、あとは人間の安全欲求を挑発するものであたったり、神秘性やコミュニケーションとセットで物やサービスを売り込む言説、は商業主義に他ならない。言語は抽象的なものだと揶揄され軽視されがちだが、言語は立派な商売の道具である。
私なんか大した思想を持っているわけではないし、絶対的に無思想であろうとする態度こそが、思想的だというわかがわからなさを、様々な場面で指摘され責め立てられて、生きざるをえなかった。だが、言葉を放棄して、物やサービスや自分を売り込めるわけがないのだ。この場合は、思想でなく理論と形容するのが適切なのかもしれない。だが、どんな小さな組織であっても派閥が生じる。敵対的な性質であっても、友好的な性質であっても、あるグループが生じる。これが思想と呼んで間違いない。とにかく、ブログという派閥の内側に私たちは居る。
非営利的であってもビジネス的であるべきだ。でないと目的意識を失うし、様々な他人の意見の窓口に図らずもなってしまう。裏を返せば、目的意識があれば、何を書いてもいい。無自覚な制約を自己で設けるべきではない。熱しやすく冷めやすい性格だと、私はブログというWeb日記の性格を正しく言い当てているであろう。そういった飽きが来たと呼ばれる無責任な筆者に感情は、読者にとって激しく無責任だとしか言いようがない。
いわゆる「オチ」がない文章を毎回書いているし、安易な「オチ」を回避して、即ち安易な結論を回避して、言わば、毎回階段の踊り場的な文章の結びの括りを行っている。私は、採算を度外視して書かれた、ブログのような文章を読むのが好きだ。商業主義の初期段階を見るような気持ちから好きだと言っている。だが、初期段階は初期段階でしかないという悲しみも同時にある。初期段階は初期段階から発展することは絶対にありえないのだ。何とか初期段階から何らかの発展を目の当たりにしたり、体感することができないものか?