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承認欲求について

私の存在感自体やブログ運営活動や私のスキルポテンシャル容姿立ち居振る舞いに、他者の承認が与えられないのは全く構わない。ただ、その能力が劣っていることに対して、懲罰や私刑を隙あらば加えようと画策して向かってくる輩が、世の中には存在するから問題が複雑になりやすい。

私は承認欲求の満たされなさから、だだをこねたりはしない。私がだだをこねたのならば、即ち釣りである。誰かを引っ掛けて個人的な笑いのネタにするためである。私個人を楽しませるための、私個人へ向けたエンターテイメントである。別の視点を与えれば、自他共の思考能力の限界を問うているのだ。

話を戻すと、個人的懲罰や私的刑事罰を加えようと画策してくる輩の存在が、世の中をややこしくしている話。私を含む無能力者は放って置けばいいのである。私のような無能力者が「無能力者は放って置けばいいのである」と主張するのは差別ではない。精神的に落ち着いた生育環境にあった者が「(無能力者は)放って置けばいいのである」と主張するのは差別主義者である。個人的懲罰や私的刑事罰を加えようと画策して、それを一つの意見の表明という形で実行したのだ。即ち権力行使をしているのだ。

仕事上で罵声を上司に浴びせられる場面を仮定して、それ自体はよくある光景なので特になんとも思わない。しかし、無能力だからという理由で、積極的に個人的な嫌がらせをしたり、個人が編み出した奇怪な懲罰を科せられるのだけは、耐えられない。この例え話は承認欲求にからめてのものだが、私個人のタイプとしては嫌がらせをされるというタイプとは性質が違っている気がする。

個人的な例えをするならこちらの方がしっくりくる。例えば落ち着いた図書館で座って本を読んでいるとする。視界の端にも同じく読書をしている人物がいるとする。なぜ視界の端の存在感が増しているのか?と説明すると、しきりに貧乏揺すりを行っていて、止む気配がないから、神経的に疲労を負わされるからだ。私の場合はこれこそが嫌がらせだと主張したい。私の位置している下層社会は、このような非合理的な自己顕示欲を旺盛に発揮している迷惑な輩と接する機会が格段に多い。

というのが私の基本姿勢であるが、それではダメなのである。「承認欲求の満たされなさ」を武器にしようと構わないのである。特定の他人の気を引こうとするのは成功へのきざはしなのだ。特定の市場をターゲットとした市場戦略なのだ。私のように味方をことごとく作れない人間にだけはなるものではない。一人でも自分の味方に引き込むことができれば、自分の権力が増しているということだ。

ここまで書いてなんだが、この記事は捨てたくなった。心理学を使って患者でもない他人を差別するのはどうか?ということが言いたかった。それに加え、私が心理学者になるとすれば、また別の世界観を提示できるはずだ。だいたいリライトしすぎだろう?外国の権威的な心理学者の学説を矮小に解釈しすぎ。それに加え、そのリライトを自己正当化しすぎだ。もともとは「外国の権威的な心理学者」はそんな差別的なことは主張していないはずである。それに加え、心理学に係わる職業の日本人内での用語の解釈に格差が見て取れるのも、私がこの記事を大きく書きづらくさせている。この記事は捨てたくなった大きな要因だ。この段落に限定しては、蛇足で愚痴ということで。

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