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アニメ『ハチミツとクローバー』と男性性について

全ての目にした出来事に対して「私は罠に嵌っている/私は罠に嵌められている」と感じてしまいます。それ自体はどうということはない。ただ心配の種が増えて、内面で思考がスパークだがケミストリーだかの内向的な忙しなさが絶えない、のは疲れる。私はそれには無抵抗だ。だが、実際に罠に嵌められているのだから、声を上げなければならない。

テレビ放映されているもの以外は観た事はないから、作者の意図や物語が100パーセント反映再構築されていない作品であるのは理解しているつもりではいるが、やはりテレビ放映中のアニメ『はちみつとクローバー』を作品内世界にのめり込んで、観ることは罠に嵌められているのではないか?

まず、登場人物が大学生と大学を中心として、それに対して近く見えて案外と遠く、漠然と入り口か出口のように口を開け光差す世界、社会人に成り立ての状況の人たちを覗き見ることが出来る。これは先ず詐欺か罠なのではないか?鑑賞者の誰もが大学生でも美大生でもあるまい。なぜにそこに舞台設定し立ち止まる価値があるのか?だた、通り過ぎていく通過点にすぎないのではないか?なぜ、学生時代の思い出は美化されなければならないのか?大衆が消費するための目的で切り売りして、自分に対して恥ずかしくは思わないのか?

そもそも、こんな物語が現実で成立することがあり得ない。脳内補正された「もしかしてあの時こう行動すれば幸福な思い出をたくさん作れたのではないだろうか?」という、言わば後悔から生まれた恥ずかしい過去を隠蔽し組み立てる目的で物語化された物語である。後悔と人間関係の絶望から生まれた作品であるのは間違いなかろう。

「私はこういう幸福な思い出を今一歩掴み取れなくて後悔したし、人間関係に絶望させられもした。その経験を大人になった今、当時若く馬鹿な自分はどう対処すれば円滑な身の回りの世界を築くことができたのか。それを当時を思い返しながら考えていく作業こそが、今の若い人たちへの、私からのメッセージだ。」という作者の声が、私には聞こえてくる気がする。全く他人を罠に嵌めているとしか私には思えない。

正直、コミックス版『HUNTER×HUNTER』を読んでも同じような感想を持つことがある。主人公が小学生の子供であるからだ。だが、コミックス版『HUNTER×HUNTER』とアニメ版『はちみつとクローバー』は別の種類のものである、と感じる。社会の猥雑さ狡猾さ汚さ下劣さとそれに安易には落ちていかない「一般市民の感覚」の力関係のバランスが描かれている。悪者は悪者ではなく、普通の人たちだ。ある場面のある条件のみで悪者(自分の力量が100パーセント過不足なく発揮できる条件下でのみ。しかし、無闇に能力を見せたりしない。他人の目に触れて能力を解析されて対抗策を練られる隙をみせるのを極端に嫌うタイプの人たちだ。)になり、他ではただの一般人の感覚を持った普通の人だ。

物語は原初から微塵も信用されていない世界だし社会であるのを感じる。インターネットや人間の能力についての等身大の理解があると、私は思う。私にとっては、冨樫義博さんがどんな表現をしどんな怠慢な姿勢でいようと、連載誌の紙面で落書き程度の汚い絵であっても(だからこそ/絵より内容を重大視している/信念に反することを絶対的に拒否する姿勢とその力を合わせ持っている)、全面的に信頼できるし、100パーセント受け入れることができる作家だ。

ただ、私が男性だから理解できない人間関係についての物語が理解できない、テレビアニメ版は簡略化されすぎている、かもしれないのは容易に想像がつく。それに、毎回オープニング曲が耳に入ってくると何か声にエロティシズムのようなものを感じる。コケティッシュな歌声だと私は感じる。それに対しても騙されているから気を引き締めなければ、と動揺させられる。それに、私は「はちみつとクローバー」的な世界の登場人物の一人に全面的に世界観に身を委ね、加わりたくなるのも騙されている、と考え込まさせられてしまう。

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