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「疲れた」と書くことが出来る権利について

疲れている。疲れが溜まると、私の場合は足の裏が熱くなると何度も書いていますが、足の裏だけではないようです。膝から下が疲れが溜まっている感じなのははっきり確信できるのだが、肘から先、首から上も最近は熱くてしょうがない。疲れがどんどん溜まっていく一方だ。首から上が熱くて暑くてしょうがない。特に肩の上部、背中から首から後頭部へかけて熱いし暑い。暑くてしょうがない。今日はもう休もう。

陽が落ちて、やっと少しづつ奇跡的に、気紛れな涼しい風が入ってくる。窓の傍だけ涼しいがなかなか部屋の温度は下がらない。照明熱、モニタの照明熱、パソコンの排熱、その他の周辺機器の熱、熱だらけの熱まみれだ。特に私の身体が発熱しているようだ。熱があるのとは種類が違い、疲れが溜まっているからのようだ。疲れが溜まっていて疲れるという悪循環だし、どこかで大幅に調整が入るのかもしれないが、日に日に少しづつ、疲れが塵のように、粉雪のようにしんしんと降り積もっていく。疲れた。ストレスも溜まっている。

疲れた疲れたとしつこく毎日書いているが正直この記事の書き方は受けない。そうでなかったら、疲れたとは書かない。疲れたと書いても同情を引かないのがよく理解できているので、自由にかつ率直に「疲れた」としつこく書くことができている。言わば、書く権利を得ているから書いている。「疲れ」は個人的なもので、他人の理解が得られない。「疲れているけど前向きに!」な言説の方が結局は受ける。もっと欲を言えば、「疲れているのは皆同じだから、愚痴を溢さず漏らさず、一緒に前向きに行こうよ!」的な言説の方がもっと受ける。

そんなに人間は前向きにはなれない。そう都合よくいくものか。私に全面的な好意を持ってくれ、それを隠そうともしないながらもはにかむ眼鏡っ娘が私の目の前に居れば「疲れているから後にしてくれ」とは言えない程に生命力が回復するかもしれないが、そう都合よくいくものではない。と言うよりも、まず初めに、自他共に「私自身の評価」を下げることにやっきになるのが私だ。このブログ上でもそうだ。

疲れているのは嘘はついていない。貧乏生活なのも嘘はついていない。だが、「私は貧乏だ」と書いても信じて貰えないのが分かっているから「私は貧乏だ」と自由に書ける。何を書いても相手にされないから自由に自分の書きたいことを書ける環境を作るのを目指しているのは確かだ。私のブログ運営方針だ。自分でも気が付いていなかった、隠れた内的指針の発露が「ひきこもり日記」だ。

誰が目にしても共通に、内向的なブログには違いない。何んだかそれが、言語的な新発見をした気分で、自己理解の整合性がすっきりとした爽快な気分だ。等身大的自己認識と言い換えてもいい。

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