第三の選択肢として、私は減らしたい。
暇すぎるが、文章がインスピレーションの泉から湧き上がってこないので仕方がない、というのはただの言い逃れにすぎず、それは怠慢以外の何者でもなく、ブログをズル休みする醜い口実だという主観に素直に従って、文章を残す為の目的以外の雑念を丁寧に取り除く日記。もしくは、意見も主張もない雑念だらけの日記が以下に書かれた。濃密な妄想も思い入れもなく。
私の手や指が反射的に綴る雑感日記を意欲的に書いてはみるが、書くという身体行為に、戸惑いに淀んだ気分の疑念が芽生えて邪魔でしょうがない。ありとあらゆる芽生えは邪魔だ。何も感じず、文章は書かれるべきで、読まれるべきではないことを実践しようと思う。そう私は決意し声高に宣言する。無意味にこそ意味がある。無意味こそ私の力強い意見だ。私は力強く意見を書くことにする。
無意識が何かを必死にかつ繊細に語っているから、耳を澄まし傾けよう。とは思うが、世界は雑念に満ちている。世界とは私のことだ。私は雑念に塗れてノイジーな存在だから、言葉のノイズを書き散らす。ここより上に書いたことは意味がなかった。忘れよう。ただ、急いで文字を進めたいだけだ。文字が進めばそれでいい。物語ではなくて文章が。
物語の腰は折りたい。物語は疲れるからだ。品数が少ない物語化が容易な大型スーパーマーケット店舗より、品数が豊富で管理に手間が掛かる大型スーパーマーケット店舗が好ましい。しかし、どこにも私の欲しい物は売っていない。初めから購買意欲に欠けているからだがやはり、「種類」という存在が純粋に好きだ。種類が豊富でも選択権のチケットがないから、私は種類の豊富さという、人間の嗜好の多様性が最大限に、尊重され実現されている(かに見える)世界を眺める。眺めたり手に取ったり、触ったりするのは無料の世界だからだ。所有以外は無料の世界。
私は私の原初から完全に選択肢が奪われている、と自分を取り巻く状況についてそう感じるが、そこには工夫の余地は私の能力の範囲で残されている。残されているというより追い詰められている。能力を発揮して結果や数字を出しなさいと。私には選択の余地がない代わりに、サバイバルの余地が残されている。言い換えれば、私はサバイバルのみの選択しか残されていない才覚のなさを惨めにも感じる。私はサバイバルをしたくない。気が引けるからだ。サバイバルに怖気づいているからだ。
私は減らしたい。第三の選択肢として私には減らす権利があることをもっと強く念じ、両手の指先へ、両足の爪先へ、両眼の視線の先へ、頭の先へ、知恵を巡らせなければならない。私は減らすのだ。私は減らすことができる権利を有しているのをもっと自覚すべきだ。「減らす」技術の知恵を蓄えて熟達者を目指そう。私は無限に、無尽蔵に次々に減らすことが出来る!