強い視線について
暑い。疲れた。俺なんてどうしようもない人間だ。人間だというより日本人であることが嫌でしょうがないし息苦しい。何とかこの場所から移動しなければ。としか考えられない。
この場所から移動できないのであれば、私は何の才能も才覚も知能もゼロどころかマイナスの人間で人間以前の存在だ、としか自己評価できない。もっと下を目指そう。私は最低のバカだ。生活能力も社会性もゼロだ。ゼロ以下を目指し目標としていく以外にありえない。夢も希望もない。
「夢とか希望とか主張している時点で甘えているというのが判ってないな?このニート野郎が!」と主張されたブログ記事は多数の人数によって書かれていて、検索すればゴロゴロ遺体のように腐るほど転がっているしその腐敗臭を目印に簡単に探し出せるし私にはその能力があるし、鼻も利く人間だ。「夢や希望」がなかったら人間は簡単に死んでいるとは思わないのだろうか?
そう想像する能力に欠けた独善的な人格形成をして何ら恥じない人物なのであろう。他罰的で抑圧的で高圧的だ。私も他罰的で抑圧的で高圧的な「人格」にまで成り上がりたいし権力が欲しい。控えめに表現すれば、経済的自立か今すぐに、この瞬間にでも実行できる放浪癖やnomadicな強い精神性で自我を補強したい。
自分だけを強い視線で見失わないように強化すべきだし、見失ってはならない。視線や視線恐怖。他者の視線が恐怖だというのなら、それは自己を見つめ直す内部の視線も恐怖だということだ。共同体に属することで複数の人格的後ろ盾の安心感を得たいし、共同体に属することで視点を曖昧な状態に保ちたい。
共同体に尽くしたい。共同体が私を守ってくれるから、共同体に忠誠を誓いたいと思う。できれば、「共同体=私個人」であり「共同体への絶対的忠誠心=私個人への絶対的忠誠心」の状態で自然な私のままでありたい。
でもどうでもいい。蒸し暑い。蒸されるし咽返る程の熱気が篭る室内であるし、咽返る程の私が篭る閉塞状況である。