心が荒む食事
書いては消し書いては消しの無間地獄。何を日記すればいいというんだ?集中力が続かない。気力も一ミクロンも湧かないし、気力の気配もない。食生活も救いようがない。なぜ人間は食事をするのかの意味を見失う食事内容だ。お腹を空かせてみても同じだ。不味い「もの」が美味しい料理へ変質するわけはない。空腹は調味料ではない。
私の食生活の内容はスーパーの弁当やレトルト食品だ。スーパーの弁当やお惣菜はなぜにあんなにも変わった独特の味付けなのか?工業製品の出来損ないの科学的なおかしなチープな味がする。食事という拷問。だからこそ、私は我慢して食べてやっているという免罪符にもなり働きもしない人生の罪悪感から逃れられもする。スーパーの弁当の方が千倍万倍百万倍ましなんだが、家族の作る料理にはこのように「もの」扱いで書いたりはしないのだが、食べる以前の問題の料理スキルだ。
不味い「もの」と言い切れるし堂々と記述できもするのは、工業製品を無理やり食道へ流し込んでいるからだし、食べることが苦痛でしょうがないし、食事する度に気分が落ち込むからだ。食後は気分がどっと落ち込む。スーパーの弁当を買うお金があるのなら別のことに有効活用する方が経済的で、教育的資産にもなるというもの。私はボロボロの衣服や下着を身に纏っているというのにサラダなどを嫌がらせのように何度も買って来たりする。加工されプラスチック製のフタつき容器入りの「サラダ」より原材料の野菜を買った方が経済的ではないのだろうか?
投げつけたくなる衝動や腹立ちを無理やり抑え無理やりルーティンワークする。でもこんなのはどうでもいいことだ。私の趣味でやっている内だと思っている。環境が、非社会的にひきこもることで少しずつじわじわ私の人間的価値や尊厳が下落していくのを眺めるのが私の趣味で、同時にライフワークだと思えば一マイクロメートルの感慨もなくやり過ごせる。
スーパーの惣菜商品やレトルト食品は何て非人間的非人道的な味がするのだろうか?「心が荒む味」がするのが経験的に、習慣的に嫌になる程に理解できた。何事も経験だという意味で私はいい経験をしている。口の中がせっけんでも食べたかのような食後の違和感(科学的な味)がする。口内に残る後味に吐き気がする。食事によって生きる気力も奪われるし、心が荒む。用意されている食料、飲料ともに私の気力を大きく削ぎ取っていく技術に長けた上手な選択のなされ方にいたく感心させられる。