バベルの塔と回り灯籠の差異
気が抜けてるし、脱力状態でもあるし両方だ。いくら寝ても寝足りないし、ストレスが溜まっているし、抑圧状態にある。なぜかリラックスできない。意味のある行為、行動の判別が私には難しい。全てが無意味に思えてくるし、全てが意味があるような思い込みもある。とにかく中途半端だ、私は中途半端だ、私のやることなすこと中途半端だ、突き抜けたい、もしくは、何か意味があることをやりとげたい。現実的な何か、社会的な何か、知覚でき視認できる何か。
とにかくストレスが長年塵積もっていて、爆発というのとは違った種類の危機感がある。若くして老人にいつのまにか成り代わってしまったような浦島太郎的というか、身を纏うオーラの老人気質への変質をもう一生元に戻すのは不可能的な。それ自体はどうでもいいんだけど、チャンスを虎視眈々と伺いつつも待機しすぎで元気が失われたら、物陰に潜んだまま茫然自失なのか?とか思うだけで、それ自体には特に意味がない。不必要な程大きな、もしくは天に届く建造物を建てるべく、土台や基礎の作成もしくは製図に戸惑いっぱなし、というか。こんなイメージが脳から出てきたのをチャンスとばかりに、バベルの塔について検索してみようとは思ったが、そうそう思いついた全てを検索してみる気力は私にはない。バベルの塔は実際にあった計画なのか、書物用物語として純粋に建築されたものなのか?の疑問はスルー。
今日は力が入らない。とはいえ、元気にタイピングしている矛盾もそうじゃないんだという弁明や注釈の必要の余地もたっぷりあるが、他者に説明している時間的余裕や心理的余裕には完全に欠けている。他者へ説明不足の欠点を別の観点から補うために、過剰にタイピングし日記するのが自己や他者への弁明の代わりになりえる、と固く強く信じている。過剰に「茫然自失のイメージ」を言葉でもてあそび記述しつづける。私はそれを成し遂げようとしている。言葉が枯渇してもう一生言葉が出てこないくらいに、内面の限界を超えて心象風景を記述しなければならない。自意識過剰で自虐的な言葉たちである。決して自己愛過剰でも自傷でもないと私は考える。私に自己愛が少しでもあれば外見にも外面にも被服にも気を使うであろう。肉体に被るものへの興味というよりも、肉体の内側への興味が尽きないし、ならば過剰に尽くしたい。
退屈は退屈でしょうがない。世界は色とりどりで美しいと思うからだ。気持ちは変えられない。しかし私の眼前に広がる風景は発展途上のまま停滞し退廃した日本国の田園風景にしか感じられない。非常に他圧的かつ抑圧的な中途半端な風景だと感じる。どんどん風景を回り灯籠のように目まぐるしく回転させるしか楽しみを見出せない気が直感的にする。