ひきこもり(もしくはニート)が日記を公開する上での不安と区別がつかない自分自身の近未来への不安と
毎日は書くことが無い。私の今後や近未来への不安を感じるけど、どうしようもないので考えないことにしている。外出すると手持ちのカードや円が減るし、生活必需品もしっかりと実感させられそうな事態に陥りそうな予感がする。世の中何を行動するにもコストだ。こうやって指1本でキーを叩いているのもコストがかかっている。コストをトレードするしか生きて行く術の無い社会(世の中)。
私には物欲がない。物欲は思い込みだという身勝手な結論を思い込み的に付けている。でも私だって世の中の全てや一部を他者よりも少しでも多く、たくさん収集したい気分は抜けない。「物欲のなさ」と「たくさん収集したい気分」は相反しないと思う。何をするにも見返りか反応は必要とするし、私のモチベーションを低下させない為にも、多くを望まず不必要なパートはどんどん切り捨てて行かなければならないが、所有欲とは別の次元で、情報を収集し分類する必要性も出てくる。
情報の扱いは大変難しい。私の言葉も情報を元に再構成されたものだし、友人知人茶飲み友達などの人間関係もないので、海に投げ入れられたボトルメッセージの潮の流れに身を任せた回遊というよりも、発声されるべき言語力の強化という側面もある。二つ同時に混在して同時進行させていると言い換えてもいいし、そのヴァリエーションや変化した別のものでもある。私は脳内に渦巻く言語を社会的な発声言語に近づける努力や練習や公開実験を行っている。誰にでも物語や言語がある。
言葉に成らなくて黙ってしまい損を被ってしまうこともあるだろう。私は複雑な感情を複雑なまま言葉で書き綴っているが、いつか複雑な感情を単純に物語化することも可能になるかもしれない。その練習の日記帳だ。「複雑な感情を単純に物語化する」のも例えば他者を騙しているようで気分が良くない場合もあるかもしれないがまたそれは別の物語だし、今は関連性がないと言い切ってもいい。「複雑な感情を単純に物語化」しつつ納得させる技術や記述について書こうとしています。
自分を納得させたり、他者を納得させるのでもいい。でも、自分を騙そうとしたり、自己満足的に他者を納得させるのではなく。最近は私には、不安だ、疲れた、眠れない、眠い、くらいしか言葉が出て来ない。しかしながら、何故こんな物語化した私の考えがいつの間にか形成されるというか、テキストエディタへ向かってタイピング出来ている脳の活動が不安だし、他者にどう思われているだろうと思う。気が狂っていると他者には感想を持たれているかもしれない不安がブログを運営しているというより、私がネットをオフラインにしても24時間営業されている、私のブログ。
私以外の人間にも可視化された私の脳内に渦巻く言語や想い。そして、普段は何も私は考えていなくぼーっと脳を空っぽにしても生きている。そんな状態で、日記が書けるのかという不安。何も事件が起こらない日常。私が世界に一人だけ生き残ったと勘違い可能な環境で他者へ向けて「ボトルメッセージ」を送り出す不安。私にも日記を公開している以上いろいろな反応が返ってくるのは理解している。リファラもたくさん毎日付いているし、私もリファラを送ってもいる。
イメージ的に言葉の意味するところというより、表層的に井の中の蛙として私は日記を書いているし、それは言葉以上や言葉以下の意味を持たないものとして、私は断固戦う用意がある、「言葉以上や言葉以下の意味を持たない」バランスの重点を均一に保つために。そんなバランス感覚は必要なのか?ということが不安だし、誰と戦っているのか分からないのも不安だ。私はネットを介して確かに、誰かに語りかけているし、誰かと戦ってもいるし、誰かを威圧し沈黙させようとも努力している。
そんな努力は必要なのかという不安がある。ネット上で、私は味方や敵や好敵手を作ろうとしてブログ活動している面もあるかもしれない。私は言葉を自分の言葉を尽くし、私のブログが私と等身大の理解をされるべく、言葉を過剰に書き綴っている面もあるかもしれない、何らかの信頼関係を構築しようと。やってみなければ何も理解できない。脳内で完結された言語を他者に批判的に投石するのが批評だとは私は思わない。考え続けること、書き続けること、やその欲望を向ける対象を選ぶ批評眼を含めた行為こそが誠実な人間の精神活動であり健全な社会生活ではないだろうか?