コミュニケーションについて考えてみた(即興粗搾り仕立て風味的論調で)
書くことが無い。足のむくみ足裏の発熱による疲労の蓄積信号が脳に継続的連続的に信号されっぱなしなので全身が疲れているかの錯覚に脳が陥り体がだるくなり眠気がする。まぶたが重い。それでも日記を書くしかない。誰の目にも触れない盲点ブログとしては書くことにより存在感の重みだけは意識させたい。
私は比重を増したい。ある枠内(ジャンル)での比重を増しつつも私がはっきりしない存在であるために(名付けえぬもの?)盲点ブログとして密かに力を蓄えたい。というよりも完璧にハブられている幽霊ブログの側だろうと自己認識している。とにかく毎日長文を書くことによりオウンロジック(←?)を煮詰めさせ無駄を省きたい。私は一つも無駄な発言はしていない。嘘なんかじゃなく、技術的政治的なブログ戦略なんかではなく、私はコミュニケーションが下手な人物だ。
その意味内容を説明しなくても自分の人生経験から分かってくれる人と自分の人生経験から分かってくれないもしくは分かることを拒否したい人がいるらしい。特定の個人へ向けたメッセージではなく、私のブログを訪れ誤読する人へ向けている。私はコミュニケーションが下手な人物だ。これからコミュニケーション能力の成長の余地があるのか無いのかは私には自分状態は読めないが、コミュニケーションの下手さは、お金の使い方の下手さだと言い換えてもいい気がする。
急にお金の使い方が上手くなることなんてありえない。一番はやはり家族の生活習慣から無意識的に学ぶところだろう。無意識的に学んでいることの強み(教育的含み資産)ってあると思う。私には何もない。無意識的に負の遺産を先祖代々受け継いでいると認識している。ここから這い上がるのは並大抵の努力では敵わないと考えている。それを克服する条件は、他者と良質な関係を築くことにある。
結局は私は、自分より完璧に能力の低い相手か、私に無条件の信頼を寄せている相手としかコミュニケーションが出来ない。これでは不幸だと私は考える。世界のみんなが私より完璧に能力が低いかもしくは私を無条件に信頼しているかでなければ理想とする社会にならない。ここを訪れるみんながそうであれば、私が実はコミュニケーションが下手な振りをしていて、実は世渡りが上手い人物だと認めてもいい。
コミュニケーションはもっと微妙で繊細なものだ。相手の実力を見極める以前に波長が合う微細な電気信号そのもの。その電気信号を発信するのも受信するのも拒否している私の姿勢が問題で、ここを正さなければ一生コミュニケーション不全な人物でなければならないと思う。
もしくはコミュニケーションを拒絶した姿勢を完璧に崩さず、理論武装しガードして、社会とはコミュニケーションを行う人間であるかどうか。どちらかの選択しかない。社会とはコミュニケーションを行う人間として仮に想定するのは、他人から言われたことだけを行い私的感情を閉ざし、黙々と自分の仕事をし、余計な仕事を押し付けられればそこで初めて狂気をあらわにする人物だと私は認識している。
人間の狂気をどこで表現するかが、コミュニケーション下手か否かが包含している諸問題の大元だと私は思う。例えば8時間労働だとして、16時間は人間の本能を表現する自由時間だとして、………………というかここまで来ると良く分からないので次回以降に持ち越しということでおながいします。
心理的負担にならずそれでいて仕事が出来る人間がコミュニケーション能力が普通な人間だと私は思う。
私は他者のブログの内容というより受け入れられ方、具体的にコメント欄について羨ましく思う。何が書かれているかの記事内容よりも、そのブログの運営者の人柄により集まってくる人の毛色の違いが見て取れるのだと思う。自分のブログとなると話は別だ。私は自分のブログそのものが盲点だ。何も状況が見えてないし自己分析なんか出来ようもない。駄目人間でキモヲタのブログとして思いの丈を、もしくは言葉をすべて出し尽くそうと努力する以外ない。