眠い。今日もブログ更新したら眠ろうかと思う
眠い。今日もブログ更新したら眠ろうかと思う。不規則でズレを包含したリズムながらも私は私なりの規則性で一日の終わりにブログ記事を書いている。眠い。昨日より眠い。書くこともない。昨日と同じ何も新鮮味もない生活。退屈ですらない。疲れているから。毎日が疲れる。退屈でなく疲れる毎日。社会と何の繋がりも無い。窓外の風景すらも見ていない毎日。知人友人言葉を交わす相手もただの一人も存在していない。孤立しているし他者が即敵に思えてしまう。一番の敵は自分な訳だが。正直、自分に対して暴力を振るうイメージが度々沸いてくる。自己嫌悪に陥るだけでは飽き足らず、自分をもっと罰しようとでもいう思考回路か?それとも自己評価の低い人間は虐げてあげる必要性があるということだろうか?環境も悪い。静かな場所へ引っ越したい。最近は何故か如何なる理由からか静かな環境に変化したようで落ち着けるのだが、最悪の環境だった頃の記憶から自由にはなれない。この住環境に良いイメージが持てない。今日は落ち着けた1日だった、思い返せばそうだった。その結論から私の悲観的な思考回路を再構築しようとこの文章を書いている。
再構築より脱構築か?脱構築の意味は全く私には分かっていない。脱構築だとか脱中心化だとかそんな言葉は知っているが、内容を知らないものについては言及できない。能力の限界だ。図書館にでも出かける必要性もあるのかもしれない。でも嘘じゃなく外に出られる気がしない。外に出ると無駄な出費があるだろう。外に出なければお金を払いようも無いし、オンラインショッピングに関連する他人との接触を回避する気持ちも持っていれば注文する気も起きないし、第一物欲が無い。なので退屈な文章しか書けない。物欲の無さが退屈なブログ記事の原因だと思う。お酒とか好きなんだが、外に出たくないせいか、お金を払いたくないせいか、それらの複合的合わせ技的要因から物欲がないのだろうか?
眠いので、何も実は考えていないでタイピングしている。私は文章を書いていないタイプしているだけだ。文字通りそうだ。
案外いい気分かも?気分が緩やかだ。もっと切羽詰っていた方が良いのだろうか?一ひきこもり人物(人格)の1日の終わりを書き綴っている。眠気が濃い空気のように全身をジェル状に包まれている空気を感じる。
ここで私の内面風景を描く日記にもネタ切れの限界が訪れる。もっと言葉がほとばしり溢れ出て来ないものか?これでは寂しすぎる。
今日メモ的に考えたのは、テレビの発声のみからの聞き取りで、「飽くなき」好奇心が「悪なき」好奇心だと少しの間、語感から混同してしまったこと。悪なき好奇心ってイイ感じかも?「それなら牛乳飲むといいよ」という無責任なアドヴァイスは本当に妄信して過剰に実行すると膵臓を痛めるリスクがあるのだろうか?そんな健康に関する豆知識にちらっと言及されていた字幕映画を観た。後は何かメモ的に一日の中でいくつか考えたけど思い出せない。そんな一日だった。思い出せない言葉少ない一日。文章量的にも私の熱(意)量的にも寂しい一日だ。もっと過剰に何かをやり遂げたい。達成感が欲しい。誰かと喋りたい。どれも私の能力の限界から実現不可能。
達成感があるとすれば今日も継続して人生を無駄に隠れて過したその一点のみ、らしい。自分のことは自分には分からない。ただそこには物語りが存在するだけ。語って(醜い弁解をして?)文章を披露する以外にどうしようもない。日常的に自己嫌悪に陥ったり、自己語りをブログ上で毎日しはするが、私には他者を批判するようには、自己批判なんて出来ようもない。私には物語がある。他者は日常的に観察していないと外観のみしか存在しない存在(細部をじっくり観察して外観から物語を理解し分析する以外は)。自己嫌悪でなく自己批判の無機質さが望ましい。自分の内面をも映し出す姿見として他者の存在は必要だ。というのは頭では理解できる。感情面でも理解できる。行動には移すことが出来ない。ひきこもりだから?