他者や自己の微妙な違いを楽しむ義務や権利や使命
毎日何か文章を書くって難しいことですね。毎日無と向かい合って生活しております。ただ時間が心地よく過ぎ去って行くのを願うばかりでそんなささやかな祈りすら機能しない自己嫌悪の毎日です。そんな無為で愚鈍で退屈に耐え忍ぶ毎日で希望があるとすれば、脳の活性化です。脳が花開くように開花し、また前向きな回転運動の兆候の訪れを待っている。それ以外に考えることは無い人生の無駄を浪費する毎日なのでございます。
再び事態が好転するささやかな兆候に漠然とした希望を抱くことは疑問を強く感じてもいる。ひきこもり以前もラッキーな人生を送っていたとは思えないし、ただのひきこもり潜伏期間であり導入部であり生まれてこの方、ひきこもりへ一直線だった人生の気がしてしょうがない。
でも厳密にはそれも嘘で、運が超良い時や説明能力の低さから上手く言い訳が出来ず他人に嵌められた形に嵌って悔やんだこともあるが、他人を状況に陥れたこともそれ以上に多数あるのかもしれない。私は競争社会を意識していなかった人生が間違っていたのかもしれないという仮説で今までの人生を再解釈しようとしている。
その考え方も間違っている。思い悩み立ち止まることこそが悪かもしれないと最近思う。でもそれは完全停止してしまって微動だにしない確固たるひきこもりの堅い意思があるいまだからこそ言える。私を動かしてみてくれと他力本願ながら思う毎日だ。
でも反対に動かない悪もあれば動く悪もあると思う。私は結局は、人生に対する姿勢の甘さから、動いても悪だったし、完全停止してしまった今現在も今こうして無意味に悪だ。私はどうしたらいいんだ、誰か(あなた)教えてください、と演劇的に発言してみる。
どちらにしろ『ひきこもり日記』そのものが思考のループだが、それ自体が悪だとしても罰せられる事柄ではないと思う。毎日同じ話題を書く私が悪いのは分かっているが、その悪循環の快楽から逃れられないのだろう、とよく私に向けて批判をされてしまうが、その考え方は間違っている。人類の歴史は微妙なズレを内包した反復の歴史だ。
愚鈍にも毎日が同じ思考の繰り返しだった筈だのに、ここまで多種多様な世界が露呈した社会はかつての人類が経験していない景色でもあり、過去にも同じタイプの景色を見た人類や局面も存在したはず。全てが退屈だし、全てが退屈な反復運動だし、全てが何かに似ている。私も何かに似ているはずなのだろうが、それでも違いを見出し論ずる余地がある。
退屈な景色に希望の色彩を描くのは微妙な変化や微妙な他との隔たりのみであります。他者や自己の微妙な違いを楽しむのが人間の営みや尊厳そのものなのかもしれません。