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映画好きな私に映画として孤独な私に語りかけて欲しい

映画は映像で出来ている。言葉では出来ていない。人間の動作の美しさを視覚化した1コマ1コマが目を惹く。一瞬動作が止まったように印象に残る瞬間が写真的な芸術形態なのかもしれない。係わろうとしなければ、関係を持とうとしなければ、その気持ちが少しもなければ、外出し外界の風景や人の動きをみようと室内でブログを純粋に訪問者として楽しもうと音楽を聴こうとラジオを聴こうと、全てが映画を観ている心理状態と似ている。それは睡眠中に夢を見ている状態を完全に覚醒した状態で追体験するチャンスがジャンルとして社会的に認知されていると言うことなのかもしれない。

それらの映画的な現象たちは光と影の陰影の配置バランスの気高さということなのかもしれない。瞬間の儚くも永遠性と普遍性、表情が物語る感情の分かりやすさもあると思う。

私にはそんな事は分からない。私は映画ではなく、物語で出来ているから切々と挫折の反復運動について主張する以外どうすることが出来ようか?自意識過剰なのは分かっているが、自意識過剰と自己評価の低さの関係性はどうだろうか?私は私を放棄し他者を全面的に受け入れるのも望んでもいるがその不可能性についてはなぜ誰も語ろうとはしないのか?私は私を自意識過剰な人間だとは考えていない。過剰に神経質な性格の人間であるかもしれないが、私は自意識過剰な人間ではないと考えている。なぜそんな汚名を着せられなくてはならないのか?いつも私は『自意識過剰だ、あいつは』と評価を受けやすいので過剰な反発心を持っている。でも褒め言葉なのかもしれない。稚拙な表現ではあるが。

私は本当に自分でなくて構わない。他者を全面的に受け入れても構わない姿勢だけはあるのだが。他人を全く信頼できず、自分の言葉すらも他人の借用ではないかと疑って掛かっている自己評価の低い人間は黙っていろ!ということだろうか?私にも体の部品として『口』を所持しているし過不足なく機能している。手も脳もある。ひきこもりに落ち込んだ人生とはいっても人間の可能性についての探究心が旺盛なタイプの人間ではある。多くの若者と同じように活動的な人間だ。

話が逸れたが、自意識過剰な人間だと本当に思われてしまうと北斗の拳の主題歌並みにショックだ。他者に与える印象を変えたいのだが無理は無理だ。どうしようもない。

私は主張の無い人間なのはそうである。自分の話より他者の話の方が面白く感じるし熱意も感じる。話を面白くする技術にも長けていると感じるし、話しなれている印象も受ける。どうしてそんなに話が次から次へと出てくるのか、不思議でしょうがない。私は黙っているしかない存在だ。私が語る物語は物語ですらなく、大人になぜなぜと質問する子供のような疑問文でしかなく、基本的に初心者で教えて君だ、私は。できれば沈黙して居たいのだが、それだと疑問に精神を蝕まれて痛いのでブログ上で物知りで頭が良いインターネットさんに疑問を全身をフルに使って問いかけているだけで、過去に何度も使った表現の一本槍だけど、馬路それ以上でもそれ以下でもない。

私は発信する側というより聞き役の方が得意なのかもしれない。私が好むタイプの他者の自己語りをシミュレーションして実験してみている長文自己語り実験ブログで、かつ他者への長文自己語り提案ブログかもしれない。私は、映画を観るようにまたはラジオの一人語りに聞き入るように他者の語りを引き出すシミュレーションに耽る孤独な人間なのかもしれない。

私の文体を真似ろと主張しているのではない。私を真似してもしょうがない。私以上に切実な語り口の自己語りブログまたは文章または声で語られる自己語りで私を魅了して貰いたい一心で私はブログを書いている呼び水ブログです。私は自分が観てみたいブログを自分で実際に書いて見せようとしているだけなんです。

最後に1つ断っておきたいのですが、私は多種多様性を認めてない訳ではなく、私が多種多様性の中に1つの身の置き場を模索してみたというだけで、多種多様性こそがサイコーなのです。なにも私を真似してみてもしようがありません。あなたは自分らしさをあなたなりの方法で最大限に発揮すべきで、そんなあなたが好きです。前向きであろうとも後ろ向きであろうとも熱意を持って欲しいです。

これは言葉が消え入りそうな自分への励ましなのかもしれないし、違うかもしれない。違う方の可能性に賭けたいのだが。賭けさせて欲しいのだが。どうでしょうか?

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