« 私の好きな音楽。今日の1曲その28。 | メイン | 体感できる体感できない »

デザートのネーミングセンスについて

今日はめんどくさいので、めんどくさいと素直に書いてみる。今日は私からは何も出て来ない。選択するというのは人間にとって大事な行為だ。どうかぜひ私を選んでください。とかこの際、テキトーっぽいながらも本音っぽい発言をしてみる。選択する余地はあるが選択の完璧な自由は無い。ようにみえて何もかもが人間は自由だ。可能性は無限だ。ここでやってはいけないのはイメージすることかもしれない。人間は何もかもが自由だといってもあらゆる行動が先人によってなされていて、閉塞感を感じるくらいがちょうどいいのかもしれない。コストやリスクを最小限に抑える必要がある。私は収入がないのだから。恥くらいはいくらでも掻いてやる。それだと出費はゼロ円だし。それは嘘で恥じは掻きたくないが、当ブログは長く続ける決心と確信だけはある。最終防衛ラインのようなものか?それとも私と私を除いた他人との国境のようなものだろうか?それ以外は何も無い。ボーダーラインを皆さんへ当ブログを通じて提供しているだけかもしれない。それ以上の意味もそれ以下の意味もない。

そんなもの他人には必要の無い事かも知れないが自分の好みを知ることは私は大切なことだと考えている。自分の好みも理解していないで、映画の批判(感想)をしているブログを見かけると嫌な気分になる。ただ暇つぶしに映画を鑑賞して、映画と現実は別物だと思い込み、だが自分の恋愛や恋愛観にはしっかり取り入れる、とかそんな態度に見えてしまう。それは私が馬鹿だからそんな風に見えてしまうのか?大方は、私は馬鹿で間抜けで仕事が出来ないタイプで人間嫌いだからそう見えてしまうのだろう。

私が上記のような自虐だと解釈されてしまう愚鈍さを敢えて書いて見せるのは、自虐なんかではなく特に意味も無い単純に表現技術の一つなだけだが、私は私を放棄したい強い願望からでもある。私はテンション低いままで安定させようと努力しているようなものでそれでは不味いと危機感が強いからだ。再び世界を新鮮な目で見渡したい。他人のフィルターを介して。私には私なんか不必要だ。

私には私は不必要だ。といってはいても今現在は、私の仲間は私しか居ないし、私も他人でもあるのだから、私も他人だという根拠はいつか説明することにして今回は省くが、『私』は唯一の仲間で、良き理解者でもないけれども、良く私のために尽くし、私のために働いてくれる忠実な部下でもある『私』を程よく往なし、利用してやってやらなければいけないし、役割を与えてあげなければ可哀想だ。そういった感じで突き放して考えていなければ恥ずかしくてブログ運営など出来ない。

このブログは自己顕示欲からというより自分の能力の限界を開示し、他人に情報公開する場だと私は思っている。

『ハートに火をつけて』ではなく『ティラミス (私をハイにして!)』の素晴らしさも私はこの記事で主張しようとしている。その気にさせられてしまう前者ではなく、内在する能力の開花を連想させる後者が私には好ましい。私はイタリアが舞台の映画って映像を観ているだけで泣けるし。ブルース・リー主演映画にもイタリアが舞台のものもある。私はイタリアの農地が映画に映しだされていても歴史の深さと太陽の恵みの歴史をも感じる。

『ハートに火をつけて』はダメだ。とかそんな風なことを図らずも書いてしまったが、ドアーズが嫌いって訳ではない。『Light My Fire / The Doors』は名曲です。ボッサ調のドラミング、長めの聴き応えがあるオルガンソロとシタールっぽく聴こえる奏法のギターソロ、メロディックなベースライン、ジム・モリソンのシャウトと歌声と歌詞、どれも最高です。

◆記事関連リンク (試聴可)
Legacy: The Absolute Best
The Doors

by G-Tools
[試聴可] Light My Fire / The Doors [1967] (ディスク: 1-3)

スポンサード リンク

連絡先

  • blog@hikikomori.in
Powered by
Movable Type 4.261